飄々(ひょうひょう)と粋な人生、オモロい人生、有難うございます(ホシヒデの人生訓)
ホシヒデのミッション
バブル世代に夢と希望を与えるパイオニアたれ
大金を稼ぐよりも、まずは早く始めてお金を得たい!始めたけど続かなくて悩んでいる人の伴走者たれ
ホシヒデのMy Credo(自分ルール)
ワクワクする方を選ぶ
手間を惜しまない
遊び心を忘れない
粋でいなせ(野暮はいけねぇ)
ホシヒデのビジネスの在り方
私のビジネスの在り方は、タワマンに住むリッチな実業家ではなく、ガード下の何故かしら潰れない食堂のおやじである
ホシヒデのプロフィール
生年月日
(昭和40年)1965年4月(昭和100年に還暦を迎えるアラカン)
血液型 O型
星座 牡羊座
干支 巳年
家族
妻 55歳 長男 24歳 長女18歳
趣味
読書(エロ本から哲学書まで乱読型)実家と現住所に1000冊以上蔵書
ウクレレ(以前ウクレレ教室に通っていた。15本ウクレレ所蔵)
特技
気功(手からエネルギーを出すことができる)
コーチング(現在も修行継続中)
資格
普通運転免許、電気工事士免許、アマチュア無線技士電話級免許
ビジネス経験
高校卒業後商社へ就職(主に工業用資材を扱う)
24歳の時に会社設立に参加(半導体製造装置関連)
33歳の時に会社倒産(産業機械部品製作会社に転職)
ネットビジネス経験
アフィリエイト(サイト・ブログ・アドセンス)
転売(雑誌せどり)MLM(物販)
ホシヒデ誕生
昭和40年4月、長男として福岡の都市部から離れた田舎町で生まれる。父方は昭和初期まで農工鍛冶屋をやっていて、母方の先祖は鹿児島県姶良市で宮大工だったらしい。
ホシヒデの5歳~7歳
正月前の親戚総出の餅つきの日、こたつで寝ていた親父の腹部に従兄弟と遊んでいた私は誤って尻もちをついた。その時、父は異常なくらい痛がった。痛みが続いたために病院に行き、医大にまで送られ胃がんと診断された。母はお医者さんから親父の余命を宣告された。ダメもとで手術を行ったが、ガンと言うことで通常より大きく胃を切り取られた。後に切除した胃を調べたらガンではないとわかる。まぁ、当時の医療技術では見抜けなかったということでしょう。
幸いにも九死に一生を得た親父ではありますが、残念ながら胃を余分に切り取った為、殆ど残っておらず、退院直後は酷い状態だった。だって、「さっちゃん」の歌じゃないけど、バナナが半分どころか4分の1も食べたら戻すような状態でしたから。
父がまともに働けるまで何年もの年月を要したのでした。
自信も体力も無くなった親父は入退院を繰り返し、その都度職を替えることとなった。まだ妹が小さかったこともあり、働きに出ることが出来なかった母は内職をして生活費を捻出していたが、一時期生活保護を受けていた。月に一度、役所に行く母に私は遊びにでも行く様について行ったが、笑顔の母がふと見せる複雑な表情が何故だか目に焼き付いている。
思うように働けない親父はいつも不機嫌だった。妹が小学校に上がると同時に母は働きに出て必死で働いた。同じ職場の人からは嫉妬とやっかみで陰口を叩かれながらも、思うように働けない親父を助けるために、なり振り構わず働いて家に帰れば主婦の仕事全部やってたよなぁ。
ずいぶん後で訊いた話だが、出来高で働いてた母は父の倍ほどお金を稼いでいたみたいだ。そりゃ職場でやっかみ受けるわ・・・・
私は親父が入院している間は、親父の実家や親戚に預けられていたので、チョッとひねくれた内向的で子供のくせに妙に哲学的な子になっていた。
外では元気で必要以上にはしゃぎまくったりするくせに、家に帰ると大人しく無口になるような。人と接するのは大好きで寂しがり屋ななくせに、人と接するのが嫌いだった。
小学6年生から高校時代のホシヒデ
小学校6年生〜中2
小6の時、東京からお父さんの仕事の都合で越してきたタカピンと仲良しになり「ホモ達」と呼ばれるほど、いつも一緒にいた。彼はスポーツ万能で、油絵もやってて、勉強もすごく出来た。明るくて人気があって誰とでも友だちになれる、私とは真反対な男だった。
彼の発案で二人で漫画を描き始める。最初は石森章太郎先生のサイボーグ009の模写から始まり、オリジナルのストーリー漫画を描いて肉筆回覧紙を作ってクラスのみんなに読ませていた。とは言え・・・彼と私は月とスッポン。
私は自分の様に変にひねくれてない眩しすぎる彼に嫉妬し、一時期彼を避けたことがあった。何をやっても彼には勝てない・・私はいつも彼の隣にいて相槌打ってる漫才の冴えないツッコミみたいなものだった。
私はひねくれ者で劣等感の塊だった。チョッとしたことで弱いくせに喧嘩した。誰彼かまわず、先生にさえも喧嘩を売った。
伯父の死とタカピンとの別れ
親父の兄さんで親父兄弟の長男の伯父が藪の中で首を吊って自殺した。伯父は、大手の工場に勤めていた が、上司と部下の間に挟まって色々あったらしい。伯父は真面目を絵で描いた様な人だった。大好きな伯父さんだった。2週間ほど山狩りをして、ようやく見つかったのだが、驚くほど綺麗な死に顔だった。一糸乱れず几帳面な伯父らしい死に方だった。中学2年の私には人の死・・・しかも自殺という・・衝撃だった。このことは私の心の中の闇となった出来事だった。
相変わらずタカピンとは付いたり離れたりしながらも漫画を描いてきた。腐れ縁なんだろうな。知らないうちにいなくてはならな存在になっていた。でも、中学2年生いっぱいでお父さんの仕事の都合で兵庫に越していってしまった。私の心にはポッカリと穴が開いてしまった。この頃の私の心は穴ぼこだらけだった。スース―風が吹き抜けた。
中学3年から高校3年生
タカピンがいなくなったことで、ポッカリと心に穴が空いた私は妙にいじけてしまい、不良連中からイジメを受けるようになる。思い出したくもない「失われた1年」だった。
私は勉強しない子で、塾に行ってもサボるし首になるので心配した両親は近所の学校に通うお兄さんを家庭教師として週2回自宅へ呼んだ。おかげでサボることも逃げ出すこともできなくなった私は嫌々勉強した。好きなアニメも見れず翌日友達の話題にも入れない・・・でも、成績は間違いなく上がってきた。私は三者面談で、この調子で努力すれば志望校も大丈夫だろうと先生に言われるまでになった。先生の「この調子で行けば」・・という言葉を忘れ、「俺は大丈夫」だと拡大解釈してしまった。
私は勉強もせず、タカピンと作った漫画研究会の後輩たちと会報作りに励んだ。試験日当日に試験場で初めて参考書を開いた。きれいな買ったばかり・・みたいな参考書。
結果は当たり前だが志望校は落ちた。しかたなく滑り止め校に入学することとなる。校則で初めての坊主頭に!授業中にゴムのり吸ったり、休み時間にシャブ打ったりするやつがいるような学校だった。
国語の教科書を読むように先生に指名されたヤツが何言ってんだかさっぱりわからない。よくよく聞いてみると漢字を全部すっ飛ばして読んでやがる。こんな学校で成績悪かったら人間やめなきゃなんなくなると気持ちを改めて猛烈に勉強する様になった。
私は記憶力だけは良かった。試験前には2時間あれば教科書70 ページくらいなら丸暗記出来た。翌日試験が3教科なら6時間あれば完璧。テストはすべて90点以上。学年では3年間常にベスト5以内にいた。
高校1年生の春先だったかな?無免許運転で家庭裁判所へ行くこととなった。この話は別に書いたので、リンク先の記事を読んでいただきたい。
ラッタッタに乗って家庭裁判所に行こう!№1
ラッタッタに乗って家庭裁判所に行こう!№2
高校3年生になって、親から工業大学への進学を望まれたが、私は勉強しない自信があった。それに裕福でもない親のスネ齧って遊ぶのは絶対に出来ないと思ってた。私は早く自分で稼いで、夜の街に大人デビューしたかった。理由は分からないが漠然とそれを望んでいた。だから、一も二も無く就職の道を選んだ。
取りあえず工業系の高校を出たので、大手の工場の職員採用試験を受けた。工場作業ではなく管理業務の方で、楽そうだったし給料も良かったので受けた。今時の若者は・・と私も言われていた時代です。一次の学科は問題なくクリアしたのだが、二次の面接で面接官の横柄な態度がどうにも気に入らず、質問に対してわざと難しい表現を使ったり小さな抵抗をしたことで不採用になった。高校の先生からは「ホシヒデ、お前大学生のようなこと言ったらしいな。高校生らしさがないって皮肉言われたぞ」と愚痴られた。私としては「上等じゃねぇか!」だった。
なんとか近くに私を置いておきたかった親父は、仕方ないので知人の市議会議員さんに頼んでとある会社に入社が決まった。私は夜の街で遊べれば別にどこでも良かった。全く何になりたいとか無かったから・・・。プロレスラーやりながら漫画家になるか!・・・なんて寝言を言ってたくらいですから。いや、マジで・・・
19歳から24歳のホシヒデ
コンピューター導入のための要員として入社したが、導入が中止となり、商事部の資材販売に配属された。まったくいい加減な会社だ。親父の友達の議員さんの紹介じゃなかったら喧嘩して辞めるところだが・・・。
多角経営でやってた会社だったから色んな部門があってレストランや、結婚式場までやったし、若い私は無茶振りされて色んな部所の手伝いを経験する。日曜日には和洋菓子の配送もやらされた。月に2日しか休んでなかった。当時は週休2日制も外圧でようやく大手さんが導入はじめた頃だったので。
配達先の喫茶店経営者の息子からバンドにスカウトされた・・・なんてこともあった。何年かボーカルとしてバンド活動をやったなぁ。会社の出店がデパートの地下に入っていたので、その手伝いにも行っていた。まったく何屋かわからない!でも、良いこともあって・・・デパガのお姉さんたちに可愛がられ一時期ホシヒデファンクラブもあったほどww マジで。
会社の配送のアルバイトに来ていた若手陶芸家の人と意気投合しサバイバルゲームチーム「コールドターキー」を立ち上げ副隊長兼広報として活動・・なんてこともやってた。一番多い時で40名近くのメンバーを抱え、阿蘇で行われた九州大会にも出場したんですよ。
本来私が所属していた会社の商事部は2人しかいない部所で、上司が病気で入院し、退院後も仕事に耐えられないとして部所を移動したため、私が前面に立つことになった。大手のお客さんを22歳位の若造が全て任されたんだから、メチャクチャな会社でしたよ。業者会、ゴルフ、接待必死でやったなぁ。売上は逆に伸ばしましたけどね。
落札先の決定から指示まで行う談合の元締めもやってましたしね。料亭の個室に集まって、くじ引きして落札社を決めるんですよ!いい経験をさせてもらいました。
ただ、私も若かったので会社の組織上は他部署の長が私の商事部の長を兼任していたんです。私が社長や部長から可愛がられているのを快く思っておらず、私もその上司が嫌いだったため24歳で辞めるまで2年ほど冷戦を続けましたね。とにかく面と向かって出来ないもんだから陰から色んな嫌がらせをしてきましたよ。えー、こんなことまでやんの?みたいな、信じられない様な嫌がらせも受けましたね。でも、私はやられればやられるほど燃えるので、その間も売上は一切落とさず・・というか記録更新を続けて兼任上司には一切口出しさせなかったですよ。
でも正直、一人で抵抗し続けるのが虚しくなったんです。なんだか疲れましたし・・そんな時に仕入先の大手メーカーの仲が良かった担当者から独立の話を持ちかけられたんです。私は決心して、その話に乗って共同出資で有限会社を設立することにしました。24歳の時です。
24歳から32歳のホシヒデ
会社を設立して半年後にメーカー担当者だった相棒のS氏がメーカーを辞めて社長として・・やっと本来の形に。
この会社は半導体製造装置メーカーの下請けとして部品やユニットのアッセンブリを行う事になっていたが、ここでも私は無茶ぶりを食らうことになる。お手伝いと言われて、四国愛媛県西条市の〇王に行けば知らないうちに現場監督にされており、いう事聞かない職人を使いながら1ヶ月間泊まり込みで工事を行い工期もきちんと間に合わせた。
運転したこともない4トンロングボディのユニック付きトラックで装置を積み込んで、暗い山道を通って大分まで運ばせられたこともあった。無理な納期で受けた部品製作を間に合わせるために毎日徹夜で北九州と熊本を一日2往復。家にもほとんど帰れず、車に寝泊まりして月に3,000万円売り上げを1年ほど続けた。クリスマスの街の明かりを横目にタウンエースを走らせる寂しさと言ったら無かったなぁ。
私は無茶振りされても悲しいかな・・何とかこなしてきた。私はずっと無茶ぶられ人生。今となれば宝だが・・・。
会社は人間も増え、工場も借りて結局9年間やった。1998年の半導体不況で、健闘虚しくどうにもならず倒産する。日に日に色んなものが工場からなくなっていく。今まで仲良くやってきた人たちが顔を背けながら去っていく・・・。
私は結婚したばかりで、おまけに妻のお腹には息子が宿ってた。私は会社の最後を見届け、若干借金も背負いながら知り合いから引っ張りを受け再就職をした。
33歳から35歳のホシヒデ
順風満帆とはいかなかったが2004~2007年まで右肩上がりに業績を伸ばす。これから先の詳しい話は別に記事にしているので参照いただきたい。
仕事とは全く別の話だが、液晶のバックライトを利用した観賞魚用証明で特許を取得もした。もう特許は切れているが、開発費用、弁理士に支払ったお金約100万円。前職で若干の借金があった上にこれも借金。いろんな大手水槽メーカー等に営業をかけたが採用されず1円も生み出さなかった発明・・・。ただ笑い話のネタにだけはなった。
その他にも発明品はあるが、お金が無いので実用新案も諦めた。雑誌で紹介されたこともあるんですよ。(チョットだけ自慢)
回想の「ホシヒデの過去」の後、業界の景気が悪くなり一応責任者だった私は社長から無理難題を押し付けられる羽目になりました。それでも、息子は大学生だったこともあり、お金も必要なので、何とか辛抱して勤めましたが、正直身も心もボロボロでした。
サザエさん症候群なんて言いますけど、心身疲れ果てていた私は、サザエさんが終わっても、大河ドラマが終わっても何も感じませんでした。むしろ現実逃避で早々に寝てましたよ。でも、日付が変わって朝方4時頃に決まって夢でうなされて早朝覚醒してました。それからは眠れず、ずっと仕事のことを堂々巡りで考えていました。
そんな状態が5年ほど続いたでしょうか。社長のいびりもクライマックスに向かっていました。誰がどう考えても、到底できない様な仕事を押し付けてきました。とある経営者の方に相談したことがあるんですが、「ホシヒデ君、それは絶対におかしい。なんで我慢してるんだ。このままだと殺されるぞ!」彼も経営者ですし、普段は温厚な方なのですが、その彼に「犯罪」とまで言わしめた程でした。
私もだんだん麻痺してきていたんだと思います。その言葉を聞いて我に返ったような気がしました。あれは丁度年末の最後の出勤日だった。大掃除を終えて本社の社長に意を決して電話をしました。「辞めます!」ではなく「辞めようと思います」と言うつもりでした。この期に及んで、社長の出方を見て「あわよくば」を願ったのです。
でも、残念ながら不在で話すことが出来ませんでした。でも、このまま年を越したくなかったので、思いっきり自分の気持ちをぶちまけたメールを送りました。もちろん「退職を考えています」と最後に書き添えましたが・・・。「辞めてやる!」と言えなかった私はバンジージャンプを飛ぶ前に躊躇している人の如く・・・だったのです。
背中を蹴とばされたバンジージャンプ
年末に社長にメールを送ったまま、モヤモヤした状態で正月を過ごした。「いや、ホシヒデ君待ってくれ!考え直してみないか。私も悪い部分があったのは認める・・」なんて、この期に及んでまだこんなことも空想もしていた。まったく正月だけあっておめでたい。もちろん逆のパターンも考えた。ただ、漠然と恐怖も感じてた。なんだか、現実はめでたくない正月だった。
私がその様な状況下にあることを家族は知らなかった。まだどうなるか分からないことを家族に言って余計な心配はさせたくなかった。せっかくの年末年始だというのに。
そんなこんなで、落ち着かない正月休みを終えた初出勤の日。朝一番で私は社長に電話した。
最初に電話に出た経理担当に社長に電話を繋ぐようにお願いしようと口を開きかけたら・・「ホシヒデさん、退職されるそうですね?」「えっ!」「さっき朝礼の時に社長から発表があったんですよ。驚きました!」「社長は僕が退職すると言ったのか?」「はい、社長とホシヒデさんの退職の手続きについて今打ち合わせたところでした」「あ、そう・・」「明日、社長はそちらに行くそうですよ。総務のSも一緒に行くそうです」その言葉を聞いてすべてを悟った私は社長に替わってもらうこともなく電話を切った。
あまりにも手際が良すぎる。なるほど、無理難題吹っ掛けて私が辞めますって言うのを待ってたんだなぁ・・・ってことが今更ながら理解出来た瞬間でした。営業所を閉鎖すれば会社都合になるし、退職金も満額プラス上積みしなきゃならないので、まぁ汚いというか・・・これが経営ってもんですかね?
「自分の会社だと思ってやってくれ」なんて綺麗ごと。何が社員は家族だ!どの口が言う。結局、都合が悪くなれば社員なんて医者が腫瘍を切り落とすように切って捨てられる運命。「人の仕組みに組み入れられちゃいけない」この時に嫌と言うほど身に染みました。私の営業所が業績が悪かったのは事実です。あまり詳しいことは言えないが、正直営業所の存在意義自体を考えるべきタイミングに来ていたと私は思っていました。だったら、こんな小賢しいことせずに経営判断として営業所閉鎖すればよかったのです。そうして欲しかった。ちょっとの金惜しさに、こんな手の込んだ・・こんな汚いやり方しなくても身の処し方くらいは私も心得てる。
嘘でも引き留めてほしかったが、後で考えると爆笑するほど新年初出勤の朝から、私の退職話はとんとん拍子に進んだ。心の準備も無いまま後ろから蹴とばされて否応なしにバンジージャンプ飛んだようなものです。でも、不思議と胸のつかえがスーッと消えていったのを覚えています。
本来なら後任の支店への業務引継ぎで3ヶ月は残らなきゃならない規定だったが、社長が「弊社は引継ぎで1か月残ってもらうことになるけどいいかな?」と私が知らないと思っていたのか引継ぎ期間を短縮してしまった。よほど嫌われたものだなと失笑しつつ「はい」と答えた。1か月で引継ぎなんて出来はしない。後任の支店担当者は苦労するぞ・・・。私の退職は2月いっぱいと決まった。2月の頭まで業務の引継ぎを行い、それ以降は有休消化で休みをもらった。有休消化については社長の頭にはなかったらしく渋い顔をしていたが、これは権利なので!
私は退職金と3か月後から支給される失業給付金で、しばらくゆっくりしようかなぁ・・と漠然と考えてた。身の振り方も考えてなかったし、とにかく疲れていた。心身ともに。不思議と不安や恐怖は感じなかった。それよりも精神的に解放されたことが心地よかった。1か月の引継ぎ期間は気楽でよかった。予算だ!売上だ!・・と、ケツ叩かれてる連中を横目にのんびりと過ごさせてもらった。でも、家族にはどうしても言えなかった。家族の反応が怖くて、今日言おう、明日言おう・・・と引き延ばしていたが引継ぎが終わって、明日から有休消化・・と言う日に言わざるを得なくなり、カミさんに重い口を開いた。
先のことを何も考えていない私にカミさんは不機嫌だった。ただ、事後報告の為どうすることも出来ず認めるしかなかった。本当に申し訳なく思ったが、私が心と身体を壊してからでは遅いんだ。
もう月曜日の朝方からうなされることも無く、快適な日々を過ごしていた。退職金もあるし、数か月後には失業給付金ももらえる。職業訓練校に行って給付期間を延ばそうか・・なんてことも考えてた。まだ手元に当面暮らせるお金もあるから不安も感じなかった。人間ってこんなものなのかな?
のんびりと暮らしていたそんな時、毎日のようにお客さんや仕入れ先から電話が入り始めた。
ホシヒデの副業遍歴